慶應義塾

植松 千喜:わかりっこない他者と生きる

公開日:2026.07.28

執筆者プロフィール

  • 植松 千喜(うえまつ かずき)

    研究所・センター 教職課程センター准教授

    専門分野/教育方法学、カリキュラム研究

    植松 千喜(うえまつ かずき)

    研究所・センター 教職課程センター准教授

    専門分野/教育方法学、カリキュラム研究

ヤマシタトモコの漫画『違国日記』は、小説家の主人公・槙生が、かつて確執のあった姉の遺した姪の朝と同居する日々を描いている。ふたりが初めて対面するシーンで槙生は、両親の突然の死に実感が湧かない朝に「あなたの感じ方はあなただけのもので誰にも責める権利はない」と告げる。しかしこれは槙生の単なる優しさではなく、自分と他者は「別の人間」であるという徹底的な線引きであった。次第に両親の喪失を実感した朝が「さみしい」と訴えた際には、槙生は「あなたのさみしさは理解できない」と答え、この線引きが今度は厳然たる壁として朝に立ちはだかることになる。同時に、槙生は他者を「わかり合えない」ものと観念したうえで、同居生活を送るうえで朝と互いに歩み寄ろうとする。


私はこれまで、マイノリティの子どもの「声」に向き合おうと奮闘する米国の教師に着目する研究をしてきた。そこで私が関心をもっていたのは、大人が聴こうと思っても聴けない子どもの声があることや、大人にとっての都合の良い声だけを抽出して聴いているつもりになっているのではないかという難題であった。日本でも2023年にこども基本法が施行され、子どもの声を聴くことはスローガンとして昨今よく耳にするようになったが、果たして子どもの声は大人が聴けば聴けるものなのだろうか。


子どもを経由せずに大人になる者はいない。だからこそ、大人は自らの経験から子どもに伝えたいことや残したいことを抱えており、それは教育的かかわりの契機でもある。しかしその経験や思いが、あくまで「別の人間」である子どもの声を聴きにくくしている側面も否定できない。また、子どもの声をありのままに尊重することも言うは易く行うは難しである。そうだとすると、むしろ他者とはわかり合えないことを前提として向き合い、歩み寄り続けるしかないのだろう。


さらにいえば、「他者」は人間だけでよいのかという問題もある。気候変動が深刻化するなかで、私たちが動植物などの非人間の存在や声から目を背け続けることにも限界がある。同じ人間同士ですらわかり合えないのだから、動物はなおのこと「わかりっこない」他者である。どのようにそうした他者とともに生きていけばよいのか、それは途方に暮れるほど大きな倫理的問いである。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。